チナウ
2003-05-30 (金) すきとかきらいとか。
■ 理屈じゃないの。
深夜に、久しぶりの友人から電話があった。
彼女とは東京で知り合って友達になったんだけど、色々精神的に大変な事もあって、
今は遠くはなれた故郷に帰っている。
ここ数年、日本の心の病に関する認識が目まぐるしく変わってきているように思う。
いや、私が関心が無かっただけで昔からあったのかもしれないが。
私は身近な人がたて続けに3人、故郷に帰ってしまった時期があった。
それを弱さだと言う人もいる。甘えだと言う人もいる。
はたしてそれは弱さ故なのだろうか。
テレビでは著名な先生方が、この時代、この日本で狂わないほうがおかしいとしたり顔で言っている。
そんな問題なのか?
彼女は静かにゆっくり話す。
そのリズムは潮の満ち引きに似ているような気がする。
電話をかけてきたくせに、彼女はあまり話さない。
私は簡単に最近の近況とか、東京の天気とか、
酔っ払ってこけた話や、愛しくて仕方が無い人の事とか、
そしてアナタのような人が側にいないという不満とか。
とりとめの無い話を、楽しそうに聞いてくれる。
潮の満ち引きのリズムは、なんとなく月の満ち欠けに似ていると思う。
そんな事をどこかで考えながら、私の心は満たされて行く。
それは弱さなんだろうか。
それは甘えなんだろうか。
幸い私は鈍くできていて、今この時代押しつぶされず生きている。
いや、多分。
時代とか、そんなこと本当は関係ないんじゃないか?
あいもかわらず私は、
デリカシーの無い一言で無意識のうちに人を傷つけたり、
腹が立てば平気で他人を罵倒する。
気に入らなければ陰口もたたくし、
結局自分の事しか考えていない。
そしてそれでいいと思っている。
彼女といるといごこちがいい。
誰かに似ていると思ったら、宗教にはまった友人に似ている。
いつも何かを素直に信じてしまう友人と、
信じる事に疲れてしまった彼女。
信じると言う事は時として、強さにも弱さにもなると教えてくれた。
信じないと言う事は時として、強さにも弱さにもなると教えてくれた。
彼女たちといるといつも、自分の強さと無力さを知る。
私はいつもそうやって、対極の気持ちを用いて決定打を避ける。
それこそが弱さじゃないか?
いつも何かを言うとき、当たり前のようにま逆の意見が脳裏にある。
いつも相反する2つの意見が頭にあって、
昨日と今日では意見が違う。
それは自分の意見をきちんと言う事からの逃げかもしれない。
そうしていつも逃げ道を作って、ゆらゆらするのは私の癖だ。
20歳になったとき。
親族で一番可愛がってくれた偏屈者の叔父にいわれた言葉が忘れられない。
君は20歳になって、日本という島国の中で大人として認められた。
なんてことはない。ただいろいろな事が許される代わりに、いろいろな事に罰せられるだけだ。
君が冗談で逃げずにきちんと自分の意見が言えるようになったとき、
そのとき初めて僕と大人の話をしよう。
私はなんと答えていいかわからず、だらしなくヘラヘラと笑っていた。
叔父が席を外した瞬間、せきを切ったように涙がこぼれた。
叔父の失望が混じったような一言。愛があるから言ってくれた一言で。
なのに未だに私は大人の話ができずにいる。
彼女たちはそんな私を許してくれている。
それは確かに彼女たちの中にある強さだと思う。
外からの刺激に疲れているのは、
弱さではなく弱っているということだと思う。
人は1人では生きていけないけれど、1人でしなくちゃいけない事は必ずある。
逃げてもいいと思う。だって、一生逃げるなんて出来ないんだから。
ゆっくり休んで。絶望して。
助けてあげる事は出来ないけど。
私は彼女の中にある、強さの一部を知っている。
それは決してなくならない彼女の中のほんの一部。
彼女たちは弱いと思う。彼女たちは甘いと思う。
でもそんな弱さや甘さは当然私の中にもたくさんあって。
ただ、そのあらわれ方が違うだけじゃないか?
たまには私を思い出して。
たまにでいいから声を聞かせて。
私はあなたの事日常にまぎれて忘れていながら。
それでも電話にうれしくなるから。
数少ない
私の愛しい人たちへ
# 6-30 [仕事中に泣かせないで!部長が外出中だからいいけど。 又トラブル対策会議かな?6-30は無実です。]