チナウ
2007-02-13 (火) 空に高く沈んだ船。 [長年日記]
■ 未来という責任。
親族にクンちゃんというおじさんがいる。
クンちゃんはお父さんの一番下の弟で、8人兄弟という大所帯のせいか、お父さんが高校を卒業し大阪に出てくるとき、まだ小学校低学年だった。
その後長男さんが結婚、お嫁さんがやってくる。
ばあちゃんは気が強い。そんな姑と、中学生のクンちゃんという新しい家族構成が、お嫁さんにストレスを与えたのは当然の結果で。
自分の母親と兄の嫁の間に挟まれ、うまくいかず、高校を卒業と同時にまだ新婚家庭だったお父さんを頼って大阪にやってきた。
久しぶりに会うクンちゃんはひどく無口で内向的な性格になっていて、お父さんは不憫に思ったらしい。
お母さんも、クンちゃんが部屋の隅でひざを抱え、じっとしたままほとんど口をきかないので最初はほとほと困ったといっていた。
その後3年間も新婚家庭に居座ったクンちゃんだったが、もともとうちのお父さんは、毎晩後輩達を引き連れて帰ってきてはご飯を食べさせていたらしく、まあ実質一人増えたところで・・・・とあまり深く考えるのに適さない脳を持っているうちのお母さんの性格も幸いしてか、おおむねうまくやっていたらしい。
居候している間も、その後も、お父さんはクンちゃんのお尻を叩いて、夜間ながらも大学を卒業させた。
俺は高卒だけど、あの時代、あいつをちゃんと夜間とはいえ大学に行かせたんだ。それがお父さんの小さな自慢だ。
無口で内向的な少年は、いつしか頑固で変わり者の青年へと成長し。
理屈をこねくり回したようなむかつく発言を連発しながらも、お父さんとお母さんには今も変わらず敬意を払ってくれている。
そんなクンちゃんの嫁ケイコさんは、旦那が旦那なだけに、一族一良くできた嫁という、栄光なのかどうなのか実に微妙な称号をてにいれた。
あのクンちゃんの嫁なんてよくやってられるねという、親族だからこそ言えるねぎらいに、いつも静かに笑う姿が印象的だった。
結婚後ウチの家から歩いて20分ほどのところに、カウンター10席ほどの小さな小さな喫茶店を構え、クンちゃんのダイスキなジャズを流しては、常連の客相手にカツカツながらも幸せに生活していた。
そうこうするうちに息子を2人授かった。
今度は生活のためといい、クンちゃんはさらに車で2時間山に入ったところに、ちょっとしたライブならできるジャズ喫茶を作った。
壁を埋め尽くすレコード、ドラムセットにピアノやトランペット。月に一度はプロのジャズマンを呼んでライブ。
ワインにも興味を持ち、資格は大事といううちのお父さんの勧めでソムリエの免許もとり、金と時間をもてあましたジャズ好きのカネモチとワインを語り。
嫁と子供を残し山奥に作った理想郷で、日がな一日酒と音楽の日々。週一度の休日以外は店の2階に寝泊り。いや、その休日さえも酔いつぶれてダウンという、おまえそれ完全に趣味やろという生活だったが、バブルという無責任な魔物の後ろ盾をうけ、今度は神戸に店をもう一件構えるほど繁盛した。
そんなクンちゃんとは対照的に、ケイコさんは小さな店でコーヒーを静かに淹れ続け、道楽夫とお客に言われても「ねー。」とかいいながら軽くかわし、後にバブルと地震というダブルパンチでヘロヘロになった夫を支えながら、やはり静かにコーヒーを淹れ続けた。
年末年始もお店を開けるものだから、2人の息子は年末から我が家へ来るのが恒例となり、新年はクンちゃんのお店の従業員が入れ替わり立ち代りお雑煮を食べにきた。
そんなわけで、多分普通の主婦より大量に雑煮を作っていたせいか、母ヨシコのお雑煮はなかなかおいしい。
ケイコさんもいつも、お姉さんおいしいですねと喜んで食べてくれたので、ヨシコは口うるさいクンちゃんよりも、このもの静かながらも芯の強いケイコさんをかわいがっていた。
こんなに近く付き合っていた親戚だから、一度くらいはトラブルがありそうなものなのに、ケイコさんとのトラブルはまったくなかった。
私たち兄弟もケイコさんのことは好きで、普通親戚のおばさんの顔なんてすすんで見になんて行かなそうなのに、喫茶店の近くへ行くときはよくふらりと立ち寄った。
あらーひさしぶりーとかいいながら静かにコーヒーを淹れてくれる。
ケイコさんに会いにと言うより、ケイコさんの作る付かず離れずの空間が心地よく、近況を話したりすると、ちょっと驚いて見せたり、時には心配されたりしながらも、結局いつも「青春ね、いいわねー」なんていわれて。
そして私が大人になるとその後に、「それが人生よ。大丈夫よ。」という言葉がいつの間にか付け足されるようになった。
その後地震で神戸にあった店を失い、不景気から結局その小さな喫茶店も閉め、下の息子が東京の大学に巣立つと同時に、ケイコさんも山奥へ引っ込んだ。
正月ぐらいしかあえなくなったけど、ペーパードライバーだった彼女がガンガン運転しながらお客さんを送り迎えをし、常連さんをうまくキープしている。
あいも変わらず飲んでお客と語り明かすクンちゃんの後ろで、いつも静かに洗い物をしながら皆の話に優しく笑うケイコさん。彼女こそが店の大黒柱で。
それなりに愛された店だったようだ。
昨年、秋も深まったある日。ケイコさんの癌が発覚した。子宮癌だった。
驚く周囲をよそに手術の予定が迅速に組まれ、年末にまる1日の時間をかけて行われた。
が。実際には昼前に手術は終わった。
すでに転移が激しく、どうしようもなかったからだ。
ストレッチャーに乗せられ意識をなくしたケイコさんは、もって半年という現実に包まれて出てきた。
もともとクンちゃんはケイコさんには優しかった。
特別人前でどうこうというわけではなかったが、何かあるとすぐに、ケイコちゃんこれ食べてごらんとか、ケイコちゃんこれ見てごらんとか、思うことがあるとすぐにケイコさんを呼んだ。何か伝える前にケイコさんに同じことをさせる。するとケイコさんが言葉をく聞く前に、ああ、ああ、わかる、うんうんと、すぐにクンちゃんの言いたいことを理解する。な!と満足げに笑うクンちゃん。優しい目だった。
ケイコさんが病気になって、クンちゃんは暇さえあれば病院で付きっきりになっては世話を焼いた。
お母さんが入院用に新しいパジャマなんかを差し入れした。その病院では新しいものは一度洗ってから使うというルールがある。パジャマをうれしそうに受け取るケイコさんを見つめながらクンちゃんは、「ケイコちゃんよかったな、俺すぐ洗ってくるわ。そしたらすぐに着れるやろ。かしてごらん。」といって受け取ったかと思うと、ダッシュで洗濯室へかけていってしまった。 きっと今までの人生を振り返り、ケイコさんに少しでも何かしてあげたくて仕方が無いらしい。
アイスが食べたいといえば売店へ走り、足が痛いといえばマッサージし。
あの頑固で変わり者のクンちゃんとは思えない行動に、驚くとともに涙をこらえるのが大変だったとお母さんが言っていた。
ケイコさんもわかっているのか、普段はクンちゃんに何かをお願いをするような人ではなかったが、喜ぶように適度にわがままをいい、でも大丈夫だから店に戻るようにお尻を叩いたりした。
ケイコさんに癌は告知されていたが、半年というつらい可能性は伝えていなかった。
だから見舞いに行きたいという私たちの申し出は、お父さんによって却下された。大げさにしたら気づかれるからだという。
親族で一番仲のいい叔母さんが癌になってしまったお見舞い。これにいけないという事実は、そのまま自分の不義理さをあらわしていた。
私が普段から節目節目にきちんとする律儀な性格であれば、見舞いに行ってもなんら疑われることは無かっただろう。
こういうときに自分の人間性が見えてしまい、今回本当に反省した。
つらい現実を、なるべくケイコさんに見せないという判断に従うしかなかった。
でも、たぶん、ケイコさんは気付いていたと思う。
お正月一次帰宅していたケイコさんは、車で2時間もかかる我が家へ新年の挨拶に行くと言い出した。
私は会えるといううれしさと、そんなに遠出して大丈夫かという心配と、自然にしなくてはというキモチとで、なんともいえない複雑な状況だったが、久しぶりに会うケイコさんは少し痩せて、若干の疲れは見えたものの、それ以外は毎年会うケイコさんだった。
それよりクンちゃんがげっそり痩せて、びっくりするぐらい白髪になっていた。でも。くぼんだ目が、いつもの頑固さをギラギラさせていた頃とは違い、とても静かになっていた。
相変わらず狭い部屋に大きな机を2つも並べ、12人で焼肉と鍋とケンタッキーが飛び交うという、まことに狂った宴が例年通り繰り広げられた。
ワインや日本酒や焼酎や、鍋なのになぜか雑煮も飛び出し、ケイコさんはいつもよりはしゃいでいた。焼肉を食べて見せて、私たちをひそかに驚かせた。
10日後には抗がん剤治療が始まる。その体を思いやって2時間だけの参加だった。
思いのほか元気だったケイコさんに胸をなでおろし、私は短い帰郷から東京へと帰ってきた。
帰る途中によったミホコの家で、生まれたての男の子を抱っこした。
余命半年といわれて3年生きたおばさんがいるよ。ミホコにそういわれ、ケイコさんもそうだったらいいなと思った。ミホコの息子はずっしりと重くて、しっとりして暖かくて、肌から甘ったるいにおいがして泣きそうになった。生命力の塊を抱きながら、「それが人生よ。大丈夫よ。」というケイコさんの言葉をぼんやりと思い出した。
それから10日ほどたった早朝。携帯にメールが入った。
それはお母さんからで、ケイコさんがなくなったというものだった。
つい先日元気な顔を見たばかりで。余命半年の告知を受けて1ヶ月もたっていなかった。
前日田舎から長男さん夫婦がお見舞いに来ていた。
翌日から始まる抗がん剤治療を控え、最後の自宅の夜だった。
長男さんたちが帰った後疲れていないか気遣うクンちゃんに、ケイコさんは静かに寒いから靴下をはかせてくれといった。
クンちゃんはケイコさんに靴下をはかせ、まだ営業中だったため階下の店へ戻った。夜の11時だった。
店を閉め再びケイコさんの元に戻ったところ、もう呼吸をしていなかった。
ほんの、2,3時間の間だった。
夜中我が家に真っ先に、半狂乱になったクンちゃんから電話がかかってきた。ダイちゃんの運転で駆けつけたのは2時間後、クンちゃんはケイコさんにしがみつき、ケイコちゃんが冷たい、ケイコちゃんが冷たいと泣き叫んでいた。
結婚して所帯を持った息子が駆けつけるのはもっと後、下の息子が東京から駆けつけたのはさらに昼。
誰もいない山奥の店の二階で、クンちゃんはお父さん達が駆けつける数時間の間、たった一人真っ暗な部屋でケイコさんにすがりつき泣き続けていた。
初めて聞く弟の慟哭に、お父さんもなすすべも無く一緒に泣いていた。
結局お通夜も葬儀もクンちゃんの強い要望もあり、ひっそりと身内だけで執り行われた。
私も行くといったのだが、お寺は店のさらに山奥にあり、いちいち駅から送り迎えできないという理由と、なるべくクンちゃんをケイコさんのそばにいさせてあげたいという意向で、駆けつけたお父さんとお母さんとダイちゃん、それに2人の息子とその嫁、再びとんぼ返りした長男さん夫婦とで執り行われた。
ケイコさんは2人の息子をとても愛しており、特にまだ大学生の下の息子の行く末を心配していた。
さぞ無念だろうと思ったが、生前最後の日に面会した長男さん夫婦によると、ケイコさんは最後の最後まで、「私はいいけど、あの人のことが心配で・・・」とクンちゃんのことばかり言っていたらしい。
その心配通り、クンちゃんは最後までケイコさんにしがみつき、離れようとせず、最後は息子達に支えられながら天に昇るケイコさんを見送った。
何かをガッポリと削られたような、そんなクンちゃんは見ていられなかったという。
親族一できた嫁といわれたケイコさん。
ただひとつ残念だったことは、クンちゃんより先に逝ってしまった事。
それだけクンちゃんに深く愛されていた。
ケイコさんの人生すべては知らないけれど、私のこれからの人生ところどころに、ケイコさんの言葉や思い出がこれからも生きていく。
安らかな眠りを心から祈りたい。
私の周りだけの例で言わせてもらうと、だんなさんをなくしたおくさんより、おくさんをなくしただんなさんのほうが圧倒的に弱る。弱る弱る。
男はとか女はとかで決め付けたくはないけれど。でも、あえてちょっとだけ言わせてもらえるなら。
男の人は、弱い。
若いときに、甘えるのが下手だったり照れくさかったり、そんな時間をひょっとすると女の人より多く感じているのかもしれない。
だから、徐々に甘えられるようになると、どんどん甘えたになっていくようなきがする。
いばってみせたりするのも大きくみると甘えのうちで。
年をとった頃には、すっかり奥さんに主導権を握られていることが多い。
そんな家庭は、案外幸せそうだ。
私は彼より5つも上で、もしこのまま結婚することになったら。
料理も別にうまくないし、綺麗好きでもないし、綺麗な奥さんでもないし、残念ながらまったく若くも無い。
でもがんばって長く生きようと思う。
甘えたにしてしまったら、責任を持って長く生きようと思う。
「私のほうが長生きしたるで!」とガッツポーズを決めてみせると、ぜったいウゲーとか言うとおもったが、意外にも彼は甲高い声で「アタリマエヤー」と返事した。
初代ジョイ君の声だった。
御愁傷様でした。<br><br>でもすごくいい話。<br>こうやって話だけ読ませてもらうと、<br>羨ましい人生のように思います。<br>きっと魅力的なひとだったんでしょうね。
お悔やみ申し上げます。<br><br>みんなの優しさに涙でた、なんで人間って死んじゃうんだろ。<br>クンさんにはケイコさんの分まで長生きしてほしいですね。
ありがとう。<br>やさしい二人が甘やかしてくれる嫁さんにめぐり合えることを祈ってます。<br>もうであってたらいいんだけど。<br>童貞だったらごめんね★ミャハ★