ぷっちん日記
2006-02-03 (金) 気になるキャッチコピー
■ 朝日新聞の新しいキャッチコピー
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
最近ちょっと目にしたり耳にする機会が増えたのだが、このキャッチはどうにも、いかがなものかと思う。
私が報道に求めていることは、まず事実をなるべく扇情的でなく公平に客観的に伝えることだ。何か行動を起すべきだという判断は、そういう、事実に基づいた特定の意図のない(少なくとも適切に抑制された)情報をもとに、個人個人が行なうのが理想だと思う。
その理想の報道像に照らし合わせてみると、このキャッチはどうもいただけない。
まず、言葉は時に感情的で残酷だと嘆いている。報道が感情的であるとすれば、それはなるほど嘆かれるべきことだと思うが、報道する側が、手段である言葉に感情的で残酷な性質があると嘆いてみせるのは、果たして姿勢としていいのだろうか。報道の言葉が感情的で残酷で問題となったとする。その時、責任をとるべきは言葉という抽象物か、それとも、言葉を使った本人か? 無論、使った本人であろう。自動車は事故を起すが、自動車が悪いという前に、運転者の責任を普通は指摘するだろう。言葉を適切に使うべき社会的義務を負っているものが、言葉の使い方によって起きうる悪弊を安直に詩的に言葉のせいにして被害者の立場で嘆いてしまっていいものなのだろうか。それが新聞会社のキャッチの冒頭であっていいものなのか。
キャッチは次に無力だと嘆いている。しかし、そもそも、報道自体は無力であっていい。報道さえしてくれれば影響力など狙わなくてもいい。それが重要な報道であれば、その情報によって何かを考え何かを行動する人たちが集まり、それが力になる。ことに報道する立場の人は、報道が力なのではなく、報道によって力が生まれると考えておいたほうが倫理上いいはずだ。報道が力だということは、世論を操作したり、社会的制裁を加えたりできるというだけのことで、これは本来の使命ではなく、むしろジャーナリズムの害悪の部類のはずだ。そういう価値観の私がこのキャッチの「時に無力だ」と嘆くくだりについて感じることは、この会社は世論操作や社会的制裁を加えるような力を発揮することを使命と感じているのだな、ということである。会社の実際のところは私は知るよしもないが、キャッチを読んだ印象はそうなる。(このキャッチにはまことに言葉のチカラがある。)
そしてその感覚はさらに次の文句で裏づけされる。「それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。」どうしても共感できない。このまとめ方には感覚的に違和感を感じる。その一番の原因はやはり、「報道者」である「私たち」ではなく手段にすぎない「言葉」を話題の中心に据えている点にある。
例えば、タバコを売る会社なら、「タバコには人をリラックスさせる効果もあります」「税収で貢献しています」といったタバコに関するキャッチもありだろう。
それは、その会社が、タバコを消費者に提供するというごく単純なミッションを持っており、ミッションの正当性が、タバコの正当性に多くを負っているから成り立つのである。*1
だが、新聞社は言葉という商品を売っているわけではない。いかに言葉を扱うか、言葉をつかって何を伝えるか(おそらく事実と意見が主になるはずだが)が、その新聞社の競争力の源泉であるはずだ。
しかるに、使う人によってどんな結果にもなる言葉、その言葉の曖昧さを嘆いてみせつつ、それでも抽象物である言葉の力を信じるという。それが結論であり意思表明。そんなキャッチで本当にいのだろうか? 誰もこのキャッチを変だと思わないのか? 幼稚だと思わないのか?
より善意的な解釈をしてみるとしても、私にはせいぜい、「誰かを傷つけるかもしれないし役に立たないかもしれないが報道には価値がある。続けたい」という、スランプに陥って職種を変えようかと悩んだがやっぱり続けますという感じのキャッチに思えてしまう。
そんな内向的な防衛的なキャッチでいいのか? ほかの新聞社とうちは良い意味でこう違うんだ、ということを堂々と述べるようなキャッチじゃなきゃ、商業的に意味がないのでは?
例えば、”使い方によって悪い結果を招きかねない不安定な手段である「言葉」、その危険性を知っているからこそ「私たち」はこうする”というメッセージでなくてはならないのではないのか? それが大人の発想というものではないか?
このキャッチには、頼りない手段である言葉を適切に使っていく責任を重く感じている、という、あってしかるべきメッセージが含まれていない。言葉は頼りない。頼りないのは言葉のせいであって私たちのせいではない。言葉のまきおこす不幸については私たちもつらく感じている。でも私たちは言葉を信じる。要するに、最初から最後まで責任を言葉に転嫁していると読めてしまう。そんな異様なキャッチコピーを色々なところに貼り出しているという行為が不思議でたまらないので長文を書いてみた。
*1 タバコという商品の正当性についてはここでは議論しない。正当性あるいは正当性のなさという意味である。