2015|10|
ぷっちん日記
2007-06-21 (木) 言わぬが花 [長年日記]
■ 雄弁には華があるが、沈黙には美がある
雄弁には雄弁の良さがある。物事をすみやかに伝達できる能力とは、概して、便利なものである。
しかし、いつでも沈黙より雄弁が勝るということはない。
雄弁の欠点には以下のようなものがあると私は思う。
- 雄弁は貧しい ・・・言葉を重ねることは、相手の想像の余地をなくし、伝達されるメッセージを味気なくする。すばらしい俳句には余韻があることを思い描いてもらいたい。一方、描写しすぎた俳句には何の味わいもない。
- 雄弁はハイリスク ・・・人は、長い表現のなかにただひとつでも不愉快な表現があれば、それだけをずっと覚えている。表現が長ければそれだけリスクも大きくなる。例えば、私は水彩画に苦い思い出があるのだが、絵の具を重ねすぎると紙が破けてしまう。重ねるだけが能ではない、ということもある(まあ、私は油絵に避難したのだが・・)。
- 雄弁は時間泥棒 ・・・雄弁さは、すべてを自分で一気に片付けてしまおうというコミュニケーション上の独善と深い関係があるように思う。講演や演説、あるいは論文のような、そもそも一人で長い持ち時間をそのために使う際には、これは問題にはならず、むしろ雄弁さは非常に大事である。しかし、もし、日々の会話でそういう方向を取ったらどうなるか。目の前の相手に聞けばわかることを聞かずに憶測で話を展開し、何通りもの脇道を、相手がそれるかどうかもわからないのに片っ端から塞いで回るような話し方をするとしたら。時間的無駄と疲労を相手に強いるだけのことになる。
あるとき、「沈黙は金というが、沈黙は卑怯である。リスクをとらずに黙っていて美味しいところだけ持っていこうとしている」というような感じの意見に出会ったことがある。相手はみるからに雄弁なタイプだった。沈黙する人は雄弁な人に寄生している、雄弁な人が勇気を持って発言するから世の中が動いているのだ、というような論調で私に議論への参加を求めた。
しかし、私は大変困った。瞬間的に、暗い、怒りに近い感情が湧いてきた。自分の感じている違和感や反発をすぐに説明することはできなかったし、そういう準備ができているタイミングでもなかったし、それをするべき相手でもなかった。
しかし、後になって何回もそのことを思い出した。
その時の私の反発を多少秩序立てれば、以下のような感想になる。
- 私は、すべての人間がワーワー意見をいって議論しあう世界など嫌だ。
- 発言は沈黙に勝るということは絶対の真理などではない。限られた文脈で、ある人々がそう思うというだけのことである。そういった価値観の押し付けは私の嫌いなものの一つだ。
- 雄弁な人が、雄弁こそ金と主張するのは、下品である。
- 言わぬが花という言葉を考えてみれば、美は雄弁の側よりも、沈黙の側に近いところにあるように思われる。私は美を重視するので、雄弁しかない世界を良しとする人とはわかりあえない。
- 本質的に、こういった議論はあさましく感じられるので、沈黙したいが、そのこと自体が負け側に追いやられるようで腹立たしい。
別にこの話に結論らしき結論はないのだけれど(正誤を継続して論じる気もないし。)、今日は何かを書きたい気分だったので、気になっていたことのひとつを書いてみることにした。